見立てる

始末と堪忍が育てた
当意即妙の自在の心

「今月もしぶう、こぶう暮らします」と、引き締めた心の表れか、おついたちには、"にしんこぶ"を食べ、末広がりの八のつく日は、「荒い芽が出ますように」と、縁起を担いで"アラメ"を炊き、銭箱も空になる際の日には、「もう、おカラ!」などとユーモアを込めてオカラを食べる。

「始末」と「堪忍」を何より重んじ簡素で合理的であることを旨とした京都の人たち。こんなつつましい暮らしぶりもいまでは次第に姿を消しつつあります。

それでも、京都の津々浦々には、簡素と豊かさが矛盾することなく混在し、贅沢でなくても豊かな暮らしを楽しむ工夫が今も生きてつながれているのです。「見立て」と呼ばれる生活の工夫もそのひとつ。

見立てとは、ある物を別の物に置き換えて代用することですが、たとえば、千利休が、もとは雑器であった楽茶碗を茶の眼目と呼ばれるメインの道具に使ったのも当意即妙の見立ての心。すなわち、なにものにもとらわれないフレキシブルな心と美意識がつくる自由奔放な選択と振る舞いなのです。つい、物にとらわれがちな私たちの、学びたい遊びの伝統です。